大学で学ぶと言うこと


齋藤一弥 (つくばスチューデンツ 2005年10月号から引用)

輪読もしくは自主ゼミ

 

 私を含めた同じ高校出身の3名は自宅から通うことのできる異なる三つの大学の理学部へ入学した.学科も化学,数学,地学とバラバラだった.ただのカッコ付けだったのかもしれないが,何か高校までとは違う「専門的な」勉強がしたいと思っていたので,入学の直後に勉強会を始めることにした.誰かの専門に近いのも不公平だという理由で,解析力学の勉強を始めた.担当者を決めて月に二回ほど誰かの自宅に集まって勉強をした.新しい知識を学ぶのに人の力を借りることを学んだ体験だった.

 総じて人間は弱いものである.ある日,一念発起して勉強する決意をしても,日々の諸々に流されて長続きしないのは,「三日坊主」の言葉が熟語として通用することからも明らかである.この点で,他人を巻き込んでしまう輪読は,勉強を続ける上で大変役に立つ方法である.集団で勉強するのは,長続きするということだけがメリットではない.全く初めての内容である場合,一人ではどうしても理解しきれないところが出てくる.「三人寄れば文殊の知恵」の言葉どおり,わからないことでもみんなでよく考えると解決の糸口は開けるものだ.

 最初の輪読以降,いろいろな仲間といろいろな勉強をしたが,輪読を成功させるこつはメンバーを選ぶことである.お互いに信頼できるメンバー,3-5人程度がちょうど良い.2人では忙しすぎるし,人数が多いと担当する順番が回ってこないので緊張感が無くなり身に付かない.

何を学ぶ?

 

 大学生になったら早い時期に考えておくべき問題がいくつかあるように思う. 大学生は義務教育を終えて三年以上,肉体的には労働に十分耐える.そうであるにも関わらず労働を免除されていることの意味は何だろう.これは「社会にとって教育はどういう意味を持つのか」という問題と密接に関係している.こういう問題を考えるには「学問(科学技術)は人間にとってどういう意味を持つか」,「(自分の学ぼうとしている)学問分野は学問(文化)の中でどういう位置にあるか」,「大学ってそもそも何だ」,などということを考えないといけなくなる.最近はこういうことを考える,あるいは考えたことのある学生が昔に比べるとずいぶん少なくなったようだ.

 筑波大では専攻の決定が比較的遅い.入学していろいろな講義を聞いて専攻を決めようと考えている人も少数ながらいるようだ.私は自然学類にいるから他学類について確定的なことはいえないが,1年生の講義を聴いて専攻を決めるのはおすすめできない.「講義を聞く」のと「専攻にする」の間にあるギャップはとても大きいのだ.実はこのギャップの前に高校までの学問分野のイメージと大学以降のそれとに大きなギャップがある.高校時代のイメージを持って大学の講義を漫然と聞き,それで満足して専攻を決めることには大きなリスクを伴うことを肝に銘じるべきである.このリスクを回避し,自分に相応しい専攻を選択する決め手は,おそらく輪読の活用以外にない.「専攻に入ればたくさん講義があるから」と思ってはいけない.学問領域は日進月歩で拡大しているのであり,講義で取り上げられることなどほんの一部にすぎない.専門家たらんとすれば自分で本(や文献)を読むことは必須なのだから.

視野を広く

 大学で学ぶべきことは学問だけではない.良い友人を作り,たくさん遊ぶことも,勉強するのと同じくらい,とても大事だ.だからサークルなどに所属して「濃い」つきあいをすることも良いことだ.でも,人間関係や自分の視野をそこにとどめてしまっては情けない.

 自分が学ぼうとしている学問と社会のつながりを考えるのも大事な視点だ.しかしそれだけでなく,社会のありようについてたまには思い巡らせるのも,知識人の卵としての大学生の見識だと思いたい.つい先頃,総選挙が行われたが,友達との話題にどの程度上っただろうか.もし,総選挙があったことすら知らない学生がたくさんいたら,これはやっぱり危ない状態だと思う.

 大学を卒業して20数年.すっかり年寄りになったことを証明する文章になった.書いたことには責任をもてるよう努力したい.

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